2017年11月22日

ことぶら主催「京都不思議発見」

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近頃お弁当のない生活を送っており、

ブログのタイトルが

なぜに「涌井家のお弁当」なのか?

わからなくなってきました。

 

これでも我が家のお弁当は、

2年ほど前にいわゆる

「バズった」状態になり、

一番多いときは一日のアクセスが

72万とかになったんですが、

いまはすっかり朝型生活となり、

お弁当をもっていく日が

少なくなってしまいました。

 

そんな私ですが、

本業はラジオのディレクターであります。

京都のラジオ局なので、

それなりに京都の勉強はしておりまして、

京都検定は2級をもっております。

正直、1級は受かる気がしませんが、

今年も受験はするつもりです。

 

その程度の知識で大変申し訳ないのですが、

来月「ことぶら」さんの企画で、

「京都不思議発見!」という

ツアーのガイドをさせていただきます。

むろん、あの人気テレビ番組のパロディーです。

私がミステリーハンターとなりまして、

「丸太町通り」を探検いたします。

 

あの人気テレビ番組のパロディーなので、

もちろん、ツアーはクイズ形式で進みます。

クイズに答えていただき、

一番多く、「涌井くん人形」を

ゲットした人の勝ちです。

それなりに皆様を楽しませられると

思っております。

 

お弁当を楽しみにされている皆さんに

ツアーガイドのお話をしたところで、

どうにもならんと思いつつ・・の告知でした。

 

1216()午前10

地下鉄丸太町駅集合です。

詳しくは「ことぶら」で検索!!

というわけで、

写真は丸太町通りにある「ハマムラ」さんです。

「ハマムラ」さんに関する問題も出題します。

ぜひに!!

 


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posted by 涌井慎 at 16:24 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月21日

京都の名所旧跡ご紹介69 教宣寺

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西大路三条東入ル、
両洋高校の近くにあるお寺です。
このあたりは生活圏内です。
 
お寺に関する情報は全く得られませんでしたが、
「教宣寺 京都」で検索すると、
“西高瀬川、舟入の遺構を
確認京都の近代化を担う”という
京都新聞の記事がヒットしました。
 
2004年の記事です。
明治時代、京都の水運を担った
西高瀬川の舟入の遺構が、
JR二条駅東側で見つかりました。
明治初期に完成し、
大正初期にはなくなったとみられるが、
物流の大動脈として京の近代化を担うとともに、
鉄道の広がりとともに消えていった
明治の水運の拠点です。
立命館大学の新キャンパス設置に伴い、
京都市埋蔵文化財研究所が調査したところ、
見つかったということです。
 
立命館の新キャンパスができてから、
もうそんな年月が経っているということにも
驚きです。
さて、西高瀬川は 嵯峨の保津川から
下鳥羽の鴨川まで通じる運河で、
幕末、文久3年(1863年)に開削されました。

丹波の木材や薪、炭などを
京都市内に運ぶ物流の大動脈となり、
千本三条などの周辺には
材木問屋街が形成されました。
そう思って歩いてみると、
確かにこのあたりは材木屋さん、多いです。
 
で、
どうしてこの記事が
「教宣寺京都」で検索して
ヒットしたかといいますと、
記事の最後に西高瀬川沿いにある
教宣寺の住職さんのコメントが
掲載されているんです。

「祖母が明治時代に、
千本三条の船着き場から屋形船に乗って、
嵐山へ花見に行ったと聞いたことがある。
そんな船着き場の跡が出たとは驚き」と
感慨深げに話しておられたそうです。
 
余談ですが、
西大路三条から千本三条にかけて、
三条通りには市バスが1本も通りません。
停留所もありません。ちょっと不便です。

正直、ちょっと舟を復活させてほしい。

posted by 涌井慎 at 22:29 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月20日

京都の名所旧跡ご紹介 68 源融河原院跡

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源融河原院跡
 
木屋町五条下ルあたりにあります。
源融(みなもとのとおる)さんは
嵯峨天皇の皇子です。
あの源氏物語の「光源氏」のモデルだと
されています。
宇治の平等院の近くにも別荘を持っていました。
 
源融さんは左大臣でした。
天皇の皇子が左大臣になったあたり、
私は勉強不足でわかりませんが、
何かしらあったんでしょうね。
その左大臣の源融さんが、
摂政の藤原基経さんの台頭によって、
隠棲することになったのが河原院です。
 
「河原院」は東は鴨川の中央あたり、
西は柳馬場通り、北は五条通り、
南は正面通りあたりまでの大邸宅でした。

でかっ!

写真のエノキの樹は
大邸宅のなかに森の名残らしいです。
普通、邸宅のなかに「森」はないですよね?
後ろに見える小さなお社には
榎大明神が祀られています。
このエノキはご神木として親しまれていて、
平成12年には
京都市の「区民の誇りの木」に選ばれています。
 
「河原院」という名前で
御察しの方もおられるかもしれませんが、
この大邸宅が「河原町」という
通り名の由来だといわれています。
 
そういえば、
角田光代さんによる新訳『源氏物語』が
とても気になっています。
ちょっと前に
瀬戸内寂聴さんの『源氏物語』を断念し、
京都新聞に掲載されている
いしいしんじさんの『源氏物語』になじめず、
自分は『源氏物語』を
咀嚼できない人間なのだと思っていましたが、
角田光代さんならば、
私に扉を開かせてくれそうな気がするのです。

知らんけど。


posted by 涌井慎 at 16:23 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月19日

京都の名所旧跡ご紹介67 等善寺

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河原町六条上ルにある
浄土宗西山禅林寺派のお寺です。
江戸時代後期に刊行された
「都名所図会」という、
京都に関する地誌によれば、
橘行平さんのお墓があるそうです。
 
橘行平さんといえば、
「平等寺」を紹介した際にも、
その名前が出てきました。
覚えておられる方なんぞ一人もいないでしょう。
なにせ、書いた本人が忘れていたのですから。
 
因幡国に派遣されていた橘行平さんが、
任務を終えて京都に帰ってくる途中、
夢でお告げがありました。
行平さんは お告げに従い、
因幡国の海から薬師如来像を引き揚げました。
すると、その薬師如来像が、
行平さんの後を追って
京都に飛んできたそうです。
これが「平等寺」に祀られている
「薬師如来像」です。
 
そんな薬師如来の物語の主人公
(というかわき役??)が橘行平さんです。
『都名所図会』に
お墓の場所が記されているあたり、
おそらく現代よりは江戸時代、
京都の人々にとって、
馴染みの深い名前だったのではないでしょうか。
 
いまは河原町五条を南へ下がり、東側。
河原町通り沿いの「竹林院」という
お寺の南隣にあります。
門前には「開基 中納言橘行平卿」と刻まれた
石碑があります。
お墓があるばかりでなく、
お寺を開いたのも行平さんなんですね。

正直、
等善寺の情報がなかったので、
橘行平さんで押し切りました。
なので、
ほとんど平等寺の情報です。
まだまだ勉強が足りないな。

posted by 涌井慎 at 17:31 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月18日

揺れる大相撲。

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角界が揺れています。
土俵の外のあれやこれやで
揺れています。

もっと土俵上の出来事のことを
話しましょうよ。

例えば、
このダンス習いたてみたいな
稀勢の里関の話とかを。


我が家のお弁当について、
NHK京都さんに綿密な取材を
していただいてから、
もう丸2年が経ちました。

時が経つのは早いものですね。
一瞬を大切に生きなければ。
やっぱり土俵の外のことで
盛り上がってる場合じゃないです。

posted by 涌井慎 at 18:43 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月17日

京都の名所旧跡ご紹介66 六波羅蜜寺

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かつて平家の館があったり、
鎌倉幕府には「六波羅探題」が置かれたり、
源氏と平家の盛衰をみてきた場所
「六波羅」にある「六波羅蜜寺」。
 
天暦5年(951年)、
当時流行していた疫病を治めるべく、
空也上人によって開かれた
真言宗智山派のお寺です。
西国三十三か所観音霊場
第十七番札所でもあります。
本尊は空也上人が刻んだとされる
十一面観音立像です。
 
空也上人といえば、
口から煙を吐くことで有名ですが、
醍醐天皇の第二皇子で、若くして出家し、
喜び踊りながら
念仏を唱えたことで知られています。
今に伝わる六斎念仏の始祖でもあります。
 
天皇の第二皇子でありながら、
決められたレールを生きるのを避け、
自分の信じる道を進んだ空也上人。
反対もあったんでしょうね。
知らんけど。
 
宝物館には 定朝さん作とされる地蔵菩薩立像、
あの有名な煙を吐いてる空也上人立像、
平清盛座像など、
数多くの重要文化財が置かれています。
境内にある「十輪院」が
仏師・運慶一族の菩提寺だったことから、
運慶・湛慶座像も所蔵しています。
 
ちなみに
「六波羅蜜」というのは 
この世に生かされたまま、
悟りの世界に至るための6つの修行のことです。
「布施」「持戒」「精進」
「忍辱」「禅定」「智慧」の6つです。
 
悟りなんて開かなくてもいいやって思いますね。

posted by 涌井慎 at 23:11 | Comment(4) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月16日

京都の名所旧跡ご紹介65 明王院不動寺

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松原通り麩屋町東入ルにある
真言宗東寺派のお寺です。

平安遷都より前、持統天皇5年(691年)、
道観大徳さんという方が開いた
法相宗のお寺でしたが、
のちに弘法大師さんが
自作の「石仏不動明王」を置いたため、
真言宗東寺派に改められたそうです。
恥ずかしながら
法相宗のことを知りませんでした・・。
 
やがて桓武天皇が平安遷都するわけですが、
この際、天皇は王城鎮護のため、
平安京の東西南北、四つの磐座(いわくら)に
経文を記した巻物を収めました。
明王院は その四岩倉の一つで
「南岩倉」といわれています。
 
947年から957年の天暦年間に
賀茂川の氾濫のため、流されてしまい、
その後、再建されてからも、応仁の乱で荒廃。
弘法大師さんお手製の石像も
塵芥に埋もれてしまいました。
 
ここで登場するのが豊臣秀吉さん。
1573年から1592年の天正年間、
聚楽第の造営に際し、
ここから苔むした不動明王を得て、
聚楽第に収めたところ、
夜な夜な不思議な光を放ったため、
これはただごとではない!となり、
お堂を建て、不動明王を再び、
お祀りしたのだそうです。

この夜な夜な放たれた
不思議な光の正体こそが
LEDだといわれています。


嘘です。

posted by 涌井慎 at 15:32 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする